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Posted by みやchan運営事務局 at

2010年10月16日

質実剛健なショートケーキ・台南駅(たいなんえき)

台湾の古都と呼ばれる『台南』(たいなん)の玄関口、

台南車站(タイナンツァーツァン)「台南駅」

現在の駅舎が竣工したのは、日本統治時代の1936年ということなので、
※(台湾の日本統治時代は1895~1945年)
今年で74歳!

大東亜戦争に突入する前には夜間もライトラップされ、美しい白亜の体躯を

夜空に浮かべていたといいます。

たぶんね、生クリームたっぷりのショートケーキみたいだった筈よ!赤面

チョー、ロマネコンティ!拍手

ま。それはそうと。。。


【駅の左側から】




【正面遠景】



当時では画期的でもあった夜間のライトアップ演出に加え、この駅の

特筆すべきところは、2階部分がホテルとして使われていたということ。

その名も『台南鉄道ホテル』

全9室、そのうち2室がスイートルームという高級ホテルとして運営され

ていました。

当時では珍しい洋食レストランも備えていましたが、共に現在では

営業されてなく、2階部分は倉庫として利用されているとのこと。


当時の賓客たちが見ていた窓から望む現代の街並み。。。

機会を見てぜひ覗いてみたい(笑)

【駅の右側から】




現在でも、『高雄』と並び台湾南部の重要な都市である『台南』。

豊かな河川、良港を備えているという地理的条件だけではなく、

古都と呼ばれることもあって優秀な人材も多かったのでしょう。

当時の総督府が『台北←・→台南』の鉄道整備を重要視した

気持ちが分かります。

【駅の入り口】




駅の正面に3つのアーチ。
(写真には写っていないけど手前にもう1つアーチがあります)

現在ではあまり見られない様式ですね。

なんとも、ノスタルジックというか、モダンというか。。。

設計は台湾総督府鉄道改良課の宇敷赳夫(うじきたけお)氏。

時代や国の統治機構が変わっても愛され続ける建設物。

設計士冥利に尽きるというものでしょう。

【駅中の様子】




台南市街地の規模から見ると、とても手狭に見える駅ですが

意外に中は広く「ゆったり」しています。


1日約1万8千人が利用するという台南の顔、『台南駅』。

日本人の残した建設物が今日も愛され続けています。


いい仕事してますね~!!

先人達の仕事を学びに、宮崎の中高生達よ!

修学旅行は台湾においで!!



  


Posted by 『宗』 at 14:00Comments(3)台湾に残る日本の史跡

2010年04月20日

新竹駅・新竹火車站(シンチュウフォーツォーツァン)





昔から何かとお世話になっている『新竹駅』・中文では『新竹火車站』。
史跡と言うとどこか古びた感が漂いますが、もうすぐ100歳を迎える駅舎は
今でもバリバリの現役です




1913年(大正12年)に完成した新竹駅。目の前には『SOGO』のビルが建っています。

新竹には2年ほど住んだことがあるのですが、『新竹科学園区』という
半導体や液晶、太陽光パネルなどの大工場地帯があるだけに外国人
(出張員・駐在員)が多く、また市街地も清潔で結構住みやすかったです。

新竹は別名『風城』と呼ばれるほど風が強く、
ここで作られるビーフンは最高級品と言われています(安いけどね♪)

老街にある麺屋の『ザーサイロースゥビーフン』の旨いこと旨いこと♪あっ、画像発見ニコニコ
あらら、『ザーサイロースゥメン』の方でした。。。オドロキ





100年間、人々の旅立ちを見送ってきた新竹駅。
今日も同じ場所でドッシリとお仕事しています。





台北から電車で2時間あまり、東方美人の産地でもあります。
遊びにきてくれたら『新竹ビーフン』ご馳走するよ~♪ラーメン


  


Posted by 『宗』 at 18:56Comments(9)台湾に残る日本の史跡

2010年03月31日

(台湾 彰化縣 彰化市)田中神社の石碑

もしかしたらご存知ない方も居るかもしれませんが、台湾はむかし(1895年~1945年)約50年間日本の一部でした。
なので、ふと思わぬところで当時の日本の面影を見つけることができます。

【田中神社】
金萱茶の産地、南投縣の名間郷や凍頂烏龍の鹿谷郷などに行く際によく利用する『田中』(ティエンツォン)という駅がある。

気になったので茶農家の李金洲氏に聞けば、『田中』とは日本式の名前で、さらに近くには日本時代の神社もあったとのこと。
さっそくその神社を尋ねてみました。




本殿は当時のままらしいですが、現在は仏殿として使われています。
お寺の方に「此処は日本時代は神社だったと聞きましたが何か資料などはありませんか?」と尋ねると、
若い事務員さんが、「そうですよ、当時の資料は在りませんが神社時代のものは残っていますので案内します。」と、ご親切に案内役を買って出てくれた。

聞けばこの方、大学時代に日本語を勉強されていたとのことで、僕が日本人だと知ると流暢な日本語で話しかけてくれました。
「最近宮崎では『海角七号』が上映されましたよ~♪」
「えー?3年前くらいの映画ですよ、日本の方もとっくに見てるのかと思っていました。」
なんて雑談しながら歩きます。。。



おおおぉ!灯籠発見!とおもったら、右側には解体されてテーブルにされているものも。。。
敗戦後に日本政府が台湾から引き上げた後も、形を変えて台湾の人々と生きている石の造形。



『奉献』の文字は消されていました。


 

今回、一番の驚きはこの石碑。
『田中○○造営費特別寄付』とはっきり残っていました。
(○○の部分は削られており、おそらく神社でしょう)
じつはここまで現地に住んでいた李金州氏も、子供時代からこの場所を「ジンジャ」という名でしか聞かされていなかったらしく、正式な名前がわかりませんでした。




案内をしてくれた事務員さんも同じで、「あ、田中神社ですね!」
と初めて知った様子。

石碑には日本人の名前と台湾人の名前が並べて彫られてあります。
事務員さんが、刻まれた名前を一人一人「○○さん、○○さん・・・」と日本語で「さん」を付けて丁寧に読んでくれたのが嬉しかった。


別れ際、「ありがとうございました!」と言った僕に、「いいえ!」と答えて事務所に戻ってゆく後ろ姿を見送りながら、ほんのりと心が温かくなるのを感じました。

  


Posted by 『宗』 at 23:58Comments(2)台湾に残る日本の史跡